「やればできる」という無責任な言葉

夢に見た内容をつらつらとメモしているだけなので本気にしないでください。

この世界はなにかおかしい

この世界が長期的にみて少しずつ平和になってきている、ということに対して意義を唱える人はいるだろうか?

局所的にはまだまだ情勢が不安定な地域もあるかもしれないが、広義的に見れば世界は平和になってきているとみなしてもあながち間違いではないだろう。

ただ、世界が平和になるにつれてこの世界は少しずつおかしくなってきているようにも感じられるのである。

正直に言えない風潮

これはTwitterでも何度でも言っているのだが「○○が好きだ!」という “肯定” の意思表示は誰からも非難されないのに「○○が嫌いだ!」というと「差別だ、区別だ」などと後ろ指を指されるのである。

どうして肯定する意見は良くて、否定する意見はダメなのだろう?誰しもが自分の意見を自由に主張してもいいはずではないだろうか?

例えば「○○人が好きです」と言っても誰も文句を言わないが、「〇〇人が嫌いです」と言えばたちまち問題になる。それなりに影響力がある人であればなおさらだろう。

しかし、これになにか問題があるとは思わない。

「リンゴが嫌いです」といっている人に対して「お前はリンゴが好きになるべきだ、いやならなければいけない」といっている人のほうがおかしくはないだろうか?

「リンゴが嫌いなことをいちいち言うな、リンゴが好きな人もいるんだぞ」という人もいるかも知れないが、これに対しては「リンゴが好きなことをいちいち言うな、リンゴが嫌いな人もいるんだぞ」と同様の論法で返すことができる。

つまり、どこまで言っても水掛け論になってしまうのでこれはいくら議論を進めても解決しない。

要するに、ここで必要なのは「〇〇を△△だと考える人もいる」ということを許容する力なのである。

まやかしの平等

さて、ここから本題に入ろうと思う。

今の世の中は男女平等、あらゆる人種における差別はなくすべきだという風潮である。

これはまあ何度も議論されていると思うのだが「そもそも差別とは何なのか」だったり「男女平等といいながらも実は女尊男卑だったり」など様々な意見があると思う。

今回はそれはおいといて、ぼくは「どうして望んでいないような世界を希求するのか」が不思議なのである。

雇用者の話

さて、あなたが会社を設立して従業員を雇うことになったとしよう。

何かしらの理由(これは別になんでもいい)があり、あなたは世間でいうところの高学歴な人材(ここでは男女は問わない)を高給を払ってでも欲しかったとする。

ところが「東大生のみ募集」と書くとこれは問題になるのである、正直に書いているにも関わらずだ。するとどうなるか?

高い給料が欲しいと思う人がたくさん応募してくるのである。雇用者は東大生以外は欲しくないのに、それを伝えられないばかりにいろんな人が履歴書を送ってくるのだ。

雇用者は東大生以外は欲しくないのでそれ以外の大学からの応募は全て書類選考で(あるいは履歴書の中身を全く見ずに)落としてしまうのである。

不相応なところに応募するばっかりに、十社も二十社も受けても内定をもらえないような就職難民が増えるのである。

これは雇用者からすれば余計な手間がかかるし、応募者からしても出しても意味のないところにせっせと履歴書を書いているのでお互いに損をしているだけなのだ。

「東大生のみ募集」と書いていればこんな面倒なことにはならなかったはずなのに、それが許されないのだ。

これは別に東大生に限った話ではない。「日本人の従業員が欲しい」と思っているのに「外国人はダメ」だとか「日本人のみ」と書くと声だけ大きい人がしゃしゃり出てきて面倒なことになるのである。

ちょっと前に「国籍が○○なら書類選考で落とす」と言った方がいて問題になっていたが、別にそう考えること自体は悪いことではない。同じ用に考えているが、それを言わないだけの人だってたくさんいるだろう。

もちろん、書類選考の時点で落としてしまうと本当に優秀な人が来たときに雇用者側からは損をするわけだが、その確率が低いと予想してその損失を受け入れられるのであれば経営理念として何も問題がないように思われる。

例えば、国民の大半がとても時間にルーズなことで知られる(架空の)ルーズ人がいたとする。

「遅刻する人は採用しません」と言っても問題ないのに「ルーズ人は採用しない」と言うと人権団体がうるさいのである。

正直に言えば誰も損をしないのに、正直に言えないためにややこしいことになっているのだ。

やればできるの話

なぜか知らないが、多くの人は大抵のことは「やればできる」と思っている。個人的にはこれは大きな誤りだと思う。

例えば全知全能の存在に「日本人男性を全員アスリートとして本格的に育てれば半数以上が100mを12秒で走れるようになるか?」と問えばこれは恐らく「Yes」と返ってくるだろう。

100mを12秒というのは「それなりに現実味のある」数字だからである。ただ、ものすごく頑張っても達成できない人もいるだろう。

じゃあ彼らは無価値な人間なのかと言えばそうではない。ただ単に100mを走る才能がなかったというだけだ。

これまたなぜか知らないが、多くの日本人は人間を才能の原石だと考えている。光らせ方によって様々な才能を開花させると信じているのである。

恐らくそれは誤りで、ある程度までは伸びるかもしれないがあるところで伸び悩むところが必ずくる。それが事前に「100人に1人の才能」レベルで止まるものなのか「1000000人に1人の才能」まで伸びるものなのかがわからないというのが難しいところなのだ。

悪魔の囁き

「やればできる」とは悪魔の囁きである。これを誰かに言われる限り、止まることが許されないからである。

例えばバスケットボール選手を目指している子供がいたとする、彼は熱心に練習して高校生まで真面目に取り組んでいたが不幸にも身長に恵まれなかった。

バスケットボールは明らかに身長が高いほうが有利である。もちろん、背の低い選手が全くいないわけではないが、高い選手に比べれば圧倒的に少ない。

このとき、教育者は内心「この子はバスケットボールには向いていないが、他のスポーツには向いているかもしれない」と考えるかもしれない。

しかし「お前は身長が低くてバスケットボールは向いていないから転向したほうがいい」とは切り出せないのである。もっとわかりやすい例をだそう。

有名なバスケットボール選手に対して「ぼくは身長が低いのですが、バスケットボール選手に憧れています」と質問したとしよう。このとき「身長が低いならバスケットボールは向いてないよ」と言うだろうか?向いてないだろうなあと思いながらも「努力すれば夢は叶うよ、やればできる」と当たり障りのない返事をするのではないだろうか?

その返事を鵜呑みにして見込みのない人生を選択し続けて損をするのはその少年なのに、である。まさに「やればできる」とは方針の転換を許さない悪魔の囁きなのだ。

考察

どうしてこのような不合理な世界になっていったのかについては自分的にある程度の納得がいく説明が思いついたのでここで紹介します。

まず大前提として、過去に奴隷制度として虐げられる人がいました。もちろん当時ぼくが生きていたわけではないですが、数々の歴史的な証拠がそれを物語っています。

それが偽となれば大前提から崩れるのでここではそれが真だとします。

さて、奴隷制度に対して「これはおかしい」と声を挙げる人が中いました。

これはもう完全な推測なのですが、声を挙げた人は当時奴隷制度の恩恵に預かれなかった人じゃないのかなと思います。何故なら、奴隷制度で豊かな生活ができていたのであればその生活をわざわざ捨ててまで人権活動をするなどととてもぼくには考えられないからです。もしそうだとしたら素晴らしい人徳の為せる技というほかありません。

もちろん、奴隷制度は到底許されるものではありません。発端が何かはぼくには知る由もありませんが、そういう声が大きくなって(あいだに色々ありますが)奴隷制度はなくなりました。

奴隷制度がなくなったあと、虐げられていた人たちを「可哀想」だと思う人がでてきました。これも人間として自然な感情で、否定されるべきものではありません。

そこで「可哀想な人の悪口を言うのを禁止しよう」という動きになるわけです。これの主語を大きくして「人の悪口を言うのを止めよう」となるわけです。

この流れを引き継いで「(可哀想な○○を守るために)△△とするのは “ダメ”」という風潮ができていったような気がします。

展望

さて、この風潮ですが現在は “人間” という括りでギリギリとどまっています。が、将来的にこれはどんどん拡大解釈されていくのではないかと思います。

でもよく考えたらこれは当然のことなのです。

例えばA国とB国が戦争することになりました。A国がまず何をするかというとB国の悪口を国民に対して大々的に宣伝するのです。

これは俗にプロパガンダなどと呼ばれていますね。

こうすることでA国の国民は男女の違いがあれど宗教の違いがあれど、共通の敵としてB国を認めることで結束することができるわけです。

では世界が平和になってくると人間は何を共通の敵として結束すればいいのでしょうか?ぼくは、現在の世界は人間以外の動植物を対象にしているような気がします。

もちろん、はっきりと “敵” として考えているわけではないですが、 “人間じゃないから○○してもいい” という考えが根底にあるはずです。

奴隷制というのはまさに「ルーズ人だから飼ってもいい」という理論ですね。これが現在では主語が大きくなって「人間じゃないから飼ってもいい」という理論でペットが許されているわけです。

ところがますます世界が平和になればそれらも主語に組み込まれる可能性があります。それが現在の「動物は食べてはいけない」運動に繋がっているような気がします。

これはそのうち植物も食べてはダメということになり、人工的に製造された食品しか食べないと主張する団体がでてくるんじゃないでしょうか。

いずれ、地球産のものはダメということになるかもしれません。

これがいいか悪いかはさておき、めんどくさい世の中だなあと思います。

こういうことを考えているときほど「人間はもっと減ったほうがいい」と考えないことはありません。

まとめ

ある分野において才能がないことは恥ずべきことではない。

正直に言ったほうが得なのに、言わないのは不合理。

ただ、正直に言って欲しくない人がいるというのもわかる。

こだわるのも大事だが、こだわり続けると大局を見失う。

ぼくは正直に言ってくれたほうがお互い楽なので、面倒なタテマエは言わなくていいです。

記事は以上。